私も草取りに精を出しました。ふと顔を上げ、お部屋を見ると、子どもたちがガラスに顔をくっつけるようにしてこっちを見ていました。
「みんなお手伝いしたい?」
「うん、したい、したい。」
そう話したのでしょうか、年長クラスの子どもたちが園庭に出てきました。手に手に草を入れるバケツをもって、勇んでやってきました。抜いた草を集めた、そのわきにサッとしゃがみこむと、
「これ持って行っていいですか。」
「じゃあ、お願いします。」
「はい、わかりました。」
使う言葉も丁寧でした。喜々として草をバケツに入れ、運びました。そうすることが嬉しくて嬉しくてならないのでした。子どもたちが、「ぼくも一緒に労作しているんだ、私も一緒に労作しているんだ」働くことを喜ぶ労作の当事者になっていることがよくわかりました。
あっちでも、こっちでも、子どもたち、
「ありがとう。偉いなぁ~。」
声をかけられて、ご満悦でした。子どもたちをまたひとつ前向きにした「労作デー」でした。
今春卒園したお子さんの文章が新潟日報の「大きくなったら」に載っていました。「ぼくは、おおきくなったら、としょかんではたらきたいです。・・・。それと、りょうりをするのもだいすきなので、コックさんにもなりたいです。・・・。」と。
「コックさんにもなりたい」とあります。「自分の中には図書館で働きたいという気持ちが確かにある。でもそれだけじゃない。同時にコックさんにもなりたいという気持ちもある」との思いもあればこその「にも」です。この子にとって「にも」は使わなければならない必然の言葉です。「にも」はこの子が自分の思いを見つめた確かな証拠です。
自分を見つめ思いを探す。それは自分を大事にするという事です。
こういうことが積み重なってお釈迦様の教える「天上天下唯我独尊」をその通りだと得心できるようになるのだと思います。私という人間は、永劫の過去から永劫の未来にかけて、この私だけだから絶対の価値を持つのだと主張できるようになるのだと思います。あなたの人生も私の人生もかけがえがないという点で全く同じだから、互いに尊重し合わなければならないのだと考えることができるようになるのだと思います。
「伸びようとする」。人間はそのようにできています。このことに聖心こども園がいくらかでも貢献しているならこんなに嬉しいことはありません。
木々の緑が濃くなって六月の空に揺らいでいます。
「コックさんにもなりたい」とあります。「自分の中には図書館で働きたいという気持ちが確かにある。でもそれだけじゃない。同時にコックさんにもなりたいという気持ちもある」との思いもあればこその「にも」です。この子にとって「にも」は使わなければならない必然の言葉です。「にも」はこの子が自分の思いを見つめた確かな証拠です。
自分を見つめ思いを探す。それは自分を大事にするという事です。
こういうことが積み重なってお釈迦様の教える「天上天下唯我独尊」をその通りだと得心できるようになるのだと思います。私という人間は、永劫の過去から永劫の未来にかけて、この私だけだから絶対の価値を持つのだと主張できるようになるのだと思います。あなたの人生も私の人生もかけがえがないという点で全く同じだから、互いに尊重し合わなければならないのだと考えることができるようになるのだと思います。
「伸びようとする」。人間はそのようにできています。このことに聖心こども園がいくらかでも貢献しているならこんなに嬉しいことはありません。
木々の緑が濃くなって六月の空に揺らいでいます。